グイノ神父の説教
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聖家族の祝日 C年 2009年12月27日
サムエル記上 1章20−22、24−28節 ヨハネの手紙1 3章1−2,21−24節 ルカ2章41−52節
ルカはこの話をわざと、ユダヤの過ぎ越しの祭りの間、エルサレムの神殿における出来事として位置づけます。 それは私達が、その背後にあるイエスの受難と復活を透かして見るためです。 マリアとヨセフのお陰で、イエスはまだ幼い時から、御父の方へ向かっています。 12歳でイエスは彼らに、自分の命が父である神に根付くということが、どれほど必要不可欠かを示します。 神のおきてを実行しながら、イエスは成人し、「バルミツヴ、掟の息子」になります。 御父としての愛は、彼の精神と心を膨らませます。 ユダヤの過ぎ越しの祭りの時に、両親の知らない間に、御父の家において、ご自分の使命を成就しようとイエスは決めます。
マリアとヨセフは苦しみに捕らわれて、必死にイエスを捜します。 たっぷり3日間が経ってから、ようやく神殿の中で、座っているイエスを見つけます。 もっとも驚いているのは、イエス自身です。 「どうして私を捜すのですか?」と彼は訊ねます。 20年経ってから、過ぎ越し祭の時にイエスは、3日間、悲しみと絶望の内に、仲間たちをほうりだして、再びいなくなるでしょう。 墓の中に彼を空しく捜す婦人たちに、二人の天使は、「何故、死者の中に生きておられる方を捜すのですか?」と言うでしょう。(ルカ24章5節)
イエスは神殿の中で座っていました。 マリアはすっかり興奮して、彼に言います。 「お父さんも私も、心配して捜していたのですよ!」と。 イエスは直ちに、彼らの心配よりも大切なのは、神のご計画とご自分の使命だと両親に思い出させます。「私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか?」と。 20年経ってから、マグダラのマリアは興奮しながらイエスを捜すでしょう。 イエスを発見するや否や、彼女は彼を引きとめようとします。 復活されたイエスは、彼女に「私にすがりつくのはよしなさい。 まだ父のもとに上っていないのだから」(ヨ20章17節)と言われます。 というのは、イエスの使命はまだ終わっていないからです。 それは世の終わりまで続くのです。
「何故、私を捜すのですか?」という、イエスが母になさった咎めを口にしながら、ルカは自分の福音の中で次々と話を準備します。 「皆があなたを捜しています」と使徒たちが言うと、イエスは「他へ行こう」と答え、(マルコ1章37,38節)「何故なら、私はそのために遣わされたのだから」(ルカ4章43節)と言われます。 自分の福音の最初に、ルカは私達に、困難な十字架の道をイエスに従って行くように勧めます。 ご自分の十字架上の死によって、イエスは神の望まれる事を成就されます。
父の神殿の中で座っているイエスを私達に示しながら、ルカは、彼がまた天の国で神の右に座っておられるのも見るように私達を招きます。 そこにこそ、イエスを捜すべきなのです。 キリストの栄光はイエスが本当にどなたなのかということ、又御父が愛によって、イエスを通して、私達のために実現した事とを理解させます。
マリアとヨセフの驚きは、イエスの死と復活を前にした使徒たちの不理解を、あらかじめ考えさせるものです。 同様に、イエスの両親に対する従順が示されたのは、イエスの御父に対する完全な服従を思い出させるためです。 「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2章8節)と書かれています。 ルカは、イエスがご自分の使命を成就させるしっかりした意志を私達に示すために、以下のような言葉をイエスの口から繰り返し言わせています。 「私が自分の父の家にいるのは当たり前だと言う事を、知らなかったのですか」(ルカ2章49節)とか、「メシヤはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカ224章26節)とか、「私についてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は 必ずすべて実現する」(ルカ24章44節)とか書かれています。
ルカは私達にイエスを捜しに行く一番よい場所を教えます。 第一にそれは人々が祈るために集まっている所です。 教会の神秘、つまり、キリストの体の神秘の内に忠実に生きながら、イエスを簡単に見つけます。 神のご意志を成就する従順さの内に、この愛と忠実の神秘の内に、イエスは簡単に見つかります。 共に集まって、しっかりとイエスのみ言葉を熟考しようとする人々のいるところで、この御託身の神秘の内に、イエスを発見するでしょう。 「言葉は肉となって、私達の間に宿られた」(ヨ1章14節)と言われています。 聖櫃の前で、沈黙の内に、聖体の神秘におられるイエスを私達はすぐに発見します。 更に、難しいことですが、十字架の神秘や、人々の苦しみと、死の神秘のうちにイエスを見出します。 私達は自分の罪を告白する時、イエスの赦しと慈しみの神秘の内にイエスを見つけます。
ルカの話しとヨセフとマリアの祈りが、信仰のうちに私達を成長させ、私達の人生を何時も神の方に向けるように・・・ 聖霊が、私達が毎日神のみ言葉を受ける助けとなるように・・・ 何故なら命を与えるキリストのみ言葉は、御父に向かって私達を導くために、直ぐ傍にいるイエスを、発見させるからです。 アーメン。
神の母聖マリア 2010年1月1日
民数記6章22節ー27節 ガラテヤの信徒への手紙4章4節―7節 ルカ2章16節―21節
新しい年が始まります。 私たちは主をどんなに愛しているかを申し上げるためにここにいます。 私たちは又、この新しい年を主におまかせしようと望んでいます。 神は私達にご自分の永遠性を下さいました。ですから私たちの時を、主に捧げるのは当たり前のことです。 私たちは信仰と信頼を持って、この事を行ないましょう。 というのは、私たちは永遠についても、この年がどうであるかも知らないからです。
ここで教会に集まる私たちは、イエスの弟子です。 教会の母であり、神の母であるマリアの保護のもとに、私たちは神の呼びかけにもっと注意を払うように、聖霊に祈ります。 聖ヨゼフを模範にしましょう。 ヨゼフのように、たとえ、その計画が私たちの調子を狂わせるとしても、謙遜に、神の私たちに対するご計画を受け入れましょう。
「時が満ちると、神はその御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。 それは律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした」と聖パウロは書いています。このように、マリアの子となって、イエスは私たちを彼の兄弟とされました。 私たちが神を「私たちの父」と呼び、マリアを「お母さん」と言うほど、イエスは私たちと一つになっています。 今日、私達が祝うのはこの神秘です。
神が私たちにおいて、私たちと共に、私たちの為に実現しようと望まれる事に、もっと協力するように、マリアと共に努力しましょう。 私たちの信仰生活において、マリアの役割がどれほど重要であるかをヨゼフと共に理解するように努めましょう。 ルカが自分の福音の最初に、マリアを主要人物としているのは、偶然ではありません。 ルカは私たちがマリアによってやさしくイエスを見つけることが出来、神の祝福に満たされる事が出来ると指し示しています。 日常生活において、試練を通り抜け、意外な出来事を受け入れるために、神に眼差しをしっかりと向けているように、マリアは私たちに教えます。
今年の一年中、マリアがしたように、神に対して何時も「はい」と答える力を私たちに下さるように! なぜなら、この信頼の態度は、私たちに神の平和、全ての怖れを取り除く平和、私たちの信仰と希望とを強める平和を与えるからです。 この新しい年がもたらすものが何であるかを私たちは知りません。 しかし神は何時も私たちと、共に居ると約束されました。 もし神が私たちと共に居られるなら、いかなる疑いもなく、この年は聖で良い年です。 マリアと共に神に感謝しましょう。 神は私たちの父であり、マリアは私たちの母、そして私たちは神の愛する子供です。 アーメン。
主の公現の祭日 2010年1月3日
イザヤ書60章1−6節 エフェソの信徒への手紙3章2−6節 マタイ2章1−12節
マタイが福音を書いたとき、占星術の博士達が礼拝した新生児が十字架にかけられた事を知っていました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」と。 占星術の博士達のこの質問は、30年後に、ポンシオ・ピラトが「あなたはユダヤ人の王か?」と言った質問を思い出させます。 これはまた、十字架に、取り付けられた罪状掲示の言葉です。
救い主の誕生を知って、ヘロデは危険を感じます。 彼はいそいで、「民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めます」 そして、質問された彼らは、正しい答えをつげます。 しかし、皆恐れます、それは良心に恥じるところがあったからです。 もしこの子供が救い主なら、彼らの偽善、不正、権力に対する愛着、お金と名誉に執着する傾きなどを、この子供が厳しく暴くだろうと知っていました。 この子供を消さなければならない! 祭司長たちや律法学者たちは、ヘロデ王がこのひどい仕事を片付けるだろうと言うことも知っていました。 彼らのうち誰一人、ベトレヘムまで占星学者たちを送っていこうとはしませんでした。 しかし、30年後、彼ら皆は、自分たちが十字架に付けさせるイエスを笑いものにするためにゴルゴタまで出かけます。
占星術の学者たちのこのエピソードを通して、マタイは初代教会が体験した、同様の事件を明かしています。 即ち、キリストを信じる事を拒否したユダヤ人たちは、キリスト者たちを会堂から追い出しました。 エルサレムの神殿の破壊の後、ファリサイ人たちは、「主よ、これらの悪者達が皆一瞬で滅びますように、彼らが皆殺しになりますように、彼らを踏みつぶし、彼らを倒し、彼らを辱めますように! 主が祝福されますように!」という恐ろしい祈りでキリスト者を妨害しました。 マタイが占星術の学者たちについて書いたとき、ローマの皇帝たちは既にキリスト者の迫害を始めていました。
ヘロデ、大祭司たち、律法学者たちは、自分たちの暗闇の中に留まるのを好みました。占星術の学者たちは光を選びました。 彼らは、星からのメッセージを受けて、神のみ言葉を聴き、救いと平和を発見しました。 星はひとつの印でした。 ですから、彼らがイエスを発見した時、星は消えました。 幼な子イエスを礼拝しながら、彼らは イエスが本当にどんな方であるかを啓示する信仰を得ました。 イエスはユダヤ人の王ではありませんが、全宇宙の王、世の光、全人類に提供された救いです。 イエスは平和の君です。 占星術の学者たちは、世が与えるような平和を、イエスが与えるのではないと理解しました。(ヨハネ14章27節参照) ローマの支配者は多くの民に「Pax Romana」「ローマの平和」を押し付けました。 この平和は ただ軍事力によって、強制された戦争の欠如です。 神はこのような平和を与えませんが、ご自分の平和を与えられます。 御自分と出会うために旅立つ人達に 神が何時もこの平和によってご自分を啓示されるのです。
イエスを礼拝した後、占星術の学者たちは他の道を通って自分たちのところへ帰ります。 彼らおのおの自分たちの習慣や文化を失うことはありませんが、今、彼らにとって、すべては変わりました。 というのは、彼らが捧げた贈り物よりも、もっともっと貴重な宝物を自分たちのところへ持ち帰ったからです。 その時以来、彼らは他の星の光によって導かれて歩みます。 この星とは 彼らの心に輝いているある喜びの光です。 それは 聖ペトロが自分の手紙の中で説明している「私たちの心に昇る夜明けの星」です。 この星は馬小屋の赤ちゃんのように、壊れやすい、小さい光ですが、全く小さい子供のように、この喜びの光は 幸せの約束に溢れています。
私たちの信仰生活は神に向かっての歩みですから、占星術の学者たちのように、神からの印の受け取る者であるように、マタイは私たちを招きます。 神のみ言葉と教会の教え導きは、神を容易に見出す事のできる光の印です。 もし私たちが、占星術の学者たちのように、心の底から神に近づくなら、私たちは新しい方向付けを心のうちに抱き、普段の日常生活の環境に戻ることでしょう。 これを「回心する」と呼んでいます。 回心は既に、自分自身と他の人にとって、感謝と喜びの源であり、自分自身の平和と救いの源です。 ア−メン。
主の洗礼の祝日 C年 2010年1月10日
イザヤ書 40章1−5節、9−11節、 テトスへの手紙 2章11−14節、3章4−7節、ルカ 3章15−16節、21−22節
「民衆はみな洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられる」 4人の福音史家のうちで、ルカだけが、イエスが洗礼を受けられた後で、祈られた事に言及しています。 彼の祈りに天は開け、聖霊は彼の上に降り、神の声が聞こえます。 「あなたは私の愛する子、今日、私はあなたを生んだ」と。 この福音が私たちに祈りについて教えようとしている事を、知るように努めましょう。
祈りとは、礼拝の祈りであろうと、懇願または感謝の祈りであろうと、創造主から造られた世界を隔てているヴェールを引き裂く活動です。 祈りは永遠から時を分離している壁に裂け目を開きます。 私たちは昨日と今日と明日のある「時」の中で生きています。 神ご自身は、永遠の現在を生きておられます。 祈りは私たちを神と一致させ、神の永遠の現在の中に私たちを入り込ませます。 このことは神ご自身が、逆の道を取られたので可能です。 神は人間になられました。 イエスは私たちの時の中に来られ、イエスの祈りは私たちを永遠の中に挿入されます。 だからこそ、永遠の御父は私たちの歴史の時の中で、「今日、私はあなたを生んだ」とおおせになる事が出来るのです。
この御父の声は、イエスの上にくだる聖霊の目の見える降下を伴います。 私たちが心をこめて祈る時、つまり私たちが、祈りの賜物に自分を開く時、天は開け、神の霊は私たちのうちで祈るために、私たちに降ります。 霊は私たちに「アッバ、父よ。」(ガラテヤ書4章6節)と言う可能性を与えます。 私たちがその事を信仰をもって言う時、御父は私たちがキリストと一致している事をご覧になります。 直ぐに父は、「お前は私の子、今日、私はお前を生んだ。」と言って私たちに答えられます。 このように、聖霊は「私たちが神の子供であり、キリストの相続人であることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」(ロ−マ書8章16節) これは昔、洗礼者ヨハネが告げた「聖霊と火での洗礼」を実現します。(ルカ3章16節) 火と霊におけるこの洗礼は、私たちのうちにある、全く神に関わりがないものとか、または神との私たちとの一致を妨げるものを燃えつくします。
ところで私たちは「聖人との交わり」についても、もう少し理解できます。 天使たちと一致している全ての聖人たちは、永遠の現在の中で、神を賛美しています。 しかし彼らは、いまだにこの世の時に捕らわれている私たちのために絶えず、祈りとりなしをしています。 この世界での、私たちの祈り、典礼的儀式、ミサなどは貧弱なもので、不器用であり、注意散漫で、ミスばかりです。 それにも関わらず、それらは天を垣間見せてくれる裂け目を何時も、もたらします。 この裂け目は時というものが存在していない神の現在の中にほんの少し入る事を私たちに許します。 ここに、諸聖人との交わりのうちで、この世界での私達の典礼が、天の国の典礼への参加であることの答えがあります。 全ての天使たちと聖人たちと共に私たちは声をあわせて神の栄光を終わりなく、歌いましょう。(ミサの叙唱参照)
私達の参加するミサの一つ一つが、聖パウロが弟子のテトスに書いた事を実現しています。 「実に、全ての人に救いをもたらす神の恵みが現れました。」(テトス2章11節)「キリストの恵によって、私たちは義とされ、希望通り、永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトス3章7節) ルカは、聖霊のうちに命に近づく道を私たちに与えるために、イエスは人間としての状況を取られたと、説明しています。 ルカは「新しい人」、聖霊によって新しくされた人としてイエスを私たちに示します。 神の心に従う人です。 人類の天職はこのように生きることです。 ルカは私たちにまたキリストのように祈る事を勧めています。 というのは、洗礼を受けたものは、イエスのように、人生のあらゆる瞬間を、父なる神との一致のうちに生きることを学ぶために、そして父の愛のうちに子として居続けるために、聖霊によって導かれるままであるべきだからです。 アーメン。
聖母被昇天の祭日 C年 2010年8月15日
黙示録11章19節、12章1−6節、10節 Tコリントの信徒への手紙15章20−27節 ルカ1章39−56節
世界中のいたるところで、キリスト信者は教会の歴史の中では、長い伝統を持っている聖母被昇天を祝います。 しかし、この出来事は聖書の中で直接的根拠を持っていません。 はじめ、この祝日は「神の母の眠り」と呼ばれていました。 後になって使われたラテン語のassumptioという言葉は誤解されたり、しばしば、間違って訳されたりしました。 確かに16世紀からラテン語の使用がすたれ、芸術家がマリアの被昇天を空間的現象として現し始めます。 マリアは天使に運ばれて、雲のかなたの神の栄光の中に入ります。 そのために、大勢の人が、昔のエノクや預言者エリヤと同じように、マリアも生きたまま天に入ったと考えています。
昔から教会はずっと、マリアはすべての人間と同じように、またご自分の子イエスと同じように死んだと教えています。 カトリックの信仰は、「彼女の体は墓の腐敗を知らなかった」と明言しています。 これは、「神が彼女を蘇えらせた」という意味です。 ですから輝いている体のまま天に挙げられているマリアを描くイメージは忘れましょう。 ラテン語のassumptioという言葉は決して被昇天を意味しませんし、むしろ、「ある条件を引き受ける事、何かを完成すること」を意味します。 神がご自分の御子イエスの死と復活を責任を持って完成されたのと同じように、マリアの死の責任をとって、栄光にまで引き上げ、その生涯を完成されました。
マリアの最初のイコンは使徒たちに囲まれて臨終のベッドに横たわる姿です。 彼女の死体の前に天使たちは頭を垂れ、イエスは腕に白い布で巻かれた幼な子を抱いて、その真ん中に立っています。 この幼な子こそ、天に生まれる母マリアです。 マリアはご自分の子イエスによって、神のもとへ運ばれます。 イエスが私たちの人間性に与かる為に、マリアは自分の肉の内に、神の子を身ごもって産みました。 イエスはお返しに彼女が天に生まれる為に、ご自分の復活と神性にマリアを与からせます。 中世の終わりまで、東・西の教会はマリアの死を伝統的なやり方で表わそうとしました。
マリアは神によって完成された全人類です。 マリアは死から生命への通り道で、もっとも完全な模範として私たちに与えられました。 生命の母となるために、神がマリアを無原罪として造られたからこそ、彼女の体は墓の中での腐敗を知る事が全くなかったのです。 私達の世界で、神に体を与えた始めての方はマリアです。 マリアはまた体をもって神の内に留まる始めての人間です。 このように、マリアは私たち個人の未来を明らかにします。 この未来とは、死と罪の腐敗から解放された体をもって、神の栄光に与る事です。 「私たちは体の復活を信じます」
今日、被昇天の祝いと黙示録の話しは、多くのイメージを使って私達の救いの身体的意義を思い起こさせます。 マリアのように私たちが、神のみ言葉を聞き、私たちの心に、そしてまた体にもみ言葉を守るように、招いています。 マリアのように私たちも神の留まられる場所になるように、学ばなければなりません。 私達の信仰の証しによって、私達は神を身ごもって、この世に生み出さなければなりません。 マリアと共に罪人の為に祈りながら、神が全人類をご自分のうちに引き寄せられるように願いましょう。 その時、神は限りない喜びをもって、私たちを受け止め、私たちを永遠に神の内に住まわせるでしょう。
今日、三位一体の神の栄光のうちに非常に美しくなったマリアを感嘆しましょう。 ご自分の愛のご計画によって、マリアの内に神が実現された事を、私たち一人ひとりのうちにも、神はあらかじめ計画しています。 私たち一人ひとりの信仰に応じて、神はこの栄光ある見事な完成を準備します。 ですから、待つことなしに、直ぐに、歓喜の叫びをもって、マリアのマグニフィカトの歌に賛美の声を合わせて「主は私のために不思議な業をおこなわれた。 その名は尊い」と神に感謝しましょう。 アーメン。
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